無駄な買い物という贅沢

小話

洋服は、極端な話をするなら裸を隠すために着るもの。

それ以上はまあ、服装の好みが変わったりとか、今まで着たことがないものを着ることに楽しみを感じるからこそ買うけども。

 

映画を見に行ったり、ミュージシャンのライブを見に行ったり。

ミュージシャンのライブに行くっていうのは、音楽を聞いたり感じたりするっていうのは、自分の生活においてはわりかし必要なものっていう意識がある。

 

必要最低限の買い物、お金の使い道っていうのはあるけども、それ以外にお金を使えることって、なんだかとても贅沢だと思う。

それが自分の生活を豊かにしたりする。それ以上のことをできるっていうのはすごく贅沢で。

 

数年前までは雑貨とか、使い道のないモノを買うってことには意味を感じてこなかった。

それって買ってどうするの?買ったところで、っていう気持ちしか、ただただなかった。

 

それが、古道具を好きな人たちがいる環境に身を置くことになって少し変わった。

モノとして面白い、存在がユニーク。部屋に飾っておくと少し心が安らいだり、笑顔になったり。そんな感覚を覚えるようになった。

 

それからは都内の古道具屋さんに行ってみたり、リサイクルショップで服を見るついでに雑貨や古道具にも目を通してみたり。

骨董市にも行ってみたりするようになった。

 

正直、20代後半くらいから洋服に対する興味はそれまでよりも減った気がする。

じゃあどこにお金を使うのかというと、外食やミュージシャンのライブへ回ることが増えたと思う。

 

それくらいのタイミングで古道具への興味も増していった。

洋服にこだわることは、自分に自信を持たせるための方法のひとつだと思ってた。

それをあまりしなくなったのは、そこまでこだわらなくても自分を肯定できるようになってきた、って、良く言えばそんなことだったりするかな。

 

今は洋服が自信を持たせるためというよりは、日々をより気持ち良く生きるためのツール的な位置付けに変わった気がする。

最も最近はそこに手を抜きすぎてるので、もう少し服装にもこだわりたいな、と思ってるけど。

 

古道具ってのは、同じものを他で見かけたりはあんまりしない。

お店に行けば、オーナーさんが「これは面白いな」と思った感覚に基づいて仕入れられたそれらが並んでる。

 

パッと見て「なんとなく高そう」とか、それぞれの値段について察知することはできるけど、そもそも価値や値段をどうやって決めるのかも、洋服に比べたらけっこう謎。

そういう、受け取る人の価値観がわりかしダイレクトに反映される感じとかも、古道具の面白いところだったりする。

 

あとはやっぱり、買ったところで実用性がある訳でもなんでもなく、基本的には部屋に飾ることが主な用途になる。

そこに、すごく安くはないお金をかける行為自体がなんだか不思議で面白く、言いようのない滑稽さに近いものがあって好き。

 

洋服なら着て外へ出て「あの人ってお洒落だな」とか思ってもらえる可能性とか、分かりやすく人からの評価を上げるツールにもなり得る。

対して、基本的には外に持ち出すこともなく、ただ家の中で自分が眺めてるだけの古道具には、そういうツールとしての直接的な機能はない。

 

だから贅沢。そこにお金を使えるってことは、20代前半よりも少しだけ心の余裕ができたってことなのかもと嬉しくなる。

 

ただ、そうして古道具を集めること。探し続けることで磨かれる感性はきっとあると思う。

それは映画を見たり音楽を聞いたり美術館に行くことと同じで、内面的な部分から自分の感性を磨いてくれる。

 

そうして培った感性が洋服選びに影響したり、日常のなんでもないところに表れたり。

その逆もしかりだから、決してただの無駄とも言い切ったりはもちろんしない。結局、生きる上で全てのことは無駄にはならないんだとも、思う。

 

古道具って、やっぱりいいな。

感性を磨く、心を豊かにする選択は、豊かに生きるためにも大切にしていきたいと思う。

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